「村上隆の五百羅漢図展」森美術館
2015年10月31日(土)〜2016年3月6日(日)
「村上隆のスーパーフラット・コレクション」横浜美術館
2016年1月30日(土)〜4月3日(日)
2つの村上隆展が開催され
充実した展示で大変に感銘を受けてしまいました。
できればもう一度、森美術館に行きたかったのですが
今日迄となり、言葉にならなかった感想を少しまとめてみます。
横浜美術館のスーパーフラットを横軸、
森美術館の五百羅漢図を縦軸にした座標に
今迄見て来たモノ、コレから目指したいモノを配置していくと
僕の美意識の座標が変わってしまいました。
結論からいくと、
- 現在のレンズで西洋文化の呪縛から解き放て日本の美意識 -
外に対する憧れよりも内から湧き出たモノで勝負
って事でしょうか。
まずは森美術館の「村上隆の五百羅漢図典」より
着目点、たくさんあるのですが
まず目に入って来たのが、この背景のドット
部分を切り取ると、何か毒々しさもあるけど細部にまで美は宿っています。
あぁ、イラストレーターのブレンドツールを使いまくったのかな、なんて
技術的な事も思いながら、偶然を利用しながら複雑な謎解きがたくさん
ちりばめている様で。
細分にまで隙がないというか、神経が張りつめられているというか
すっごくストレートに入ってくる感じ。
例えば、
今迄「美」の基準をルーブル美術館を代表にした西洋のモノとすると
歴史と文化と宗教、価値観の違いから解釈の変換みたいな事が必要になる。
これが狩野派や琳派、浮世絵なんかだと同じ日本の作品なので随分とスムーズなんだけど時代差と一度遮断されてしまった価値観なので、こちらも意識の変換が必要になる。
そんな事をふまえて、この展示会を眺めると
スムーズなんですね、伝わってくるモノが。
今から100年後の人や100年前の人がこの展示を見たら
やっぱり時代差のズレを解釈するはず。
今の時代の海外の方々が見ても(会場には海外の方が多かったですね)
多分、少々違う解釈を交えるんじゃないかな。
村上隆さん
同じ時代に同じ国で生きている事が
とても嬉しく誇らしく思います。
いつか振り返る時がきたら、今回の2つの村上隆展
間違いなく日本の美術史に残るんじゃないかな。
僕らが生きた時代の証人に参加できた気がします。
実は、もう10年近く前
明治神宮の参道で村上さんと
すれ違った事が有ります。
何か、遠くからでもオーラを感じて
すごい人ごみの中でも気がつきました。
炎やドクロのフォルム、色合いから
僕らが見て来たアニメのシーンや絵画からのインスパイア、
解釈の変換、今の時代へのギアチェンジをブラッシュアップを
大きな画面に封印している。
あっ、忘れかけていたけど
会場の匂いも独特でした。
空気が乾燥した2月の、空調が静かにうごく高い天井の展示室は
インクや画材の匂いなのかな。独特な空間でした。
視覚以外の五感からも
作品からのエネルギーを感じ取っている様でした。
鮮やかな作品が多い中、出口付近に掲げられた
こちらの作品がとても印象に残りました。
「知りたくない事であったのだが、、、実は、、、死んでも、
魂は生き続けるらしい。そんなに、、、何万年も、何十
億年も魂が劣化しないとはいえないであろうに。」
どんな意図でこの作品を制作されたのか、わかりませんが
今の僕には、この作品がジャストフィット。
肉体の枠を飛び越えて
魂、意識、美学、みたいなのって
時を超える力を持つ。
過去と未来に繋がる”今”が
ビビットに、まぶしい程に訴えかけてくる。
今回の展示、いろいろな意見を言う人がいますが
僕にとっては間違いなく新しい基準になりました。
最後に氏のメッセージが。
染裕は何を作れるか
問われているようで
今迄と違う方向性を模索していて
まだ答えが見つからないけど
圧倒的な何かを感じ取りました。
今回の展示、写真撮影OKとの事で
最初は違和感があったのですが、会場からシャッター音を聴くたび
気がついたら自分も撮影していました。
何か新しい感じですね
ブログへの掲載もオッケーだと解釈していますが
関係の方々、写真の掲載に問題があればご連絡ください。
興味持たれた方はこちらの動画もどうぞ。
よく日曜美術館での特集の方が印象が良い事あるけど
この森美術館の展示は、実際に見て充実感を味わえるものでした。
そして、もうひとつ
横浜美術館のスーパーフラッット・コレクション
ちょっと残念な感じ、、でした。
(写真は息子に同じポーズお願いしました。)
会場、ループできないんだよなぁ。、とか、いろいろ
会場の空気って不思議ですね。
ただ、
森美術館での五百羅漢図展とスーパーフラット・コレクションをミックスさせると
2016年現在のアートの基準軸がはっきりします。
この基準の延長線に何を残せるのか。