「琥珀の夢 下」を読んで

サントリー創業者・鳥井信治郎のはてなき情熱
「やってみなはれ」の精神で日本の洋酒文化に命を捧げた男。

集英社 伊集院 静 著
「琥珀の夢」夢中になって読みふけってしまいました。
忘備録として気になったところを書き留めておきます。

P30
信治郎は丁稚時代のことを思い出した。同業の店であれ、違う種類の店であれ、そこを訪ねた折は、客や荷の様子を必ず見てくるように教えられた。手代、中番頭が他の店の様子を話の中でやんわりと尋ねていた姿を何度も見ていた。船場の情報網の一面だった。

このフレーズで、いろんな事を思い出した…
まだ学生だった頃、日本各地の工房や職人さんに会いに行って、話を伺いました。実際に自分の目で見て聞く、その場の空気を感じる“嗅覚”みたいなもの。
聴きだす会話術みたいなもの。これって経験積まないと習得できない。

P31
「よう覚えてんな。ほんの少ししかここにいいへんかったのにあんたはんの頭はどないようできたかんのや。そうや、宇治の近在の生まれ育ちや。トメの家の者は先々代から店へ奉公に来てもろうとる。店が出す茶が美味いと評判でそれだけでお客さんが寄ってくれくれはる時もあった。トメの娘も店にいっときおって、嫁へ行き、あの子を産んだんや。あの子にお茶のいれ方を教えたんはトメのはずや。信治郎はん、人に働いてもらういうことは、そういうことや。店中で教えてもろうて、鍛え上げてもろうても、それだけやったら、ほんまもんの働き手にはなれへん、わかるか?」
「はあ……」
信治郎が儀助を見た。
「いっとう肝心なんは、ここや」と儀助が胸を叩いた。
「ここや。こころがまえや。お客はんに、毎日汗水流して働いとる奉公人に、美味しいお茶を入れて飲んでもらいたいと、三代の女子が懸命にやったら、そら美味いやろう。これがお茶と違うて、商いやったらどないなる?こない強い働き手はおらんで」

染裕は、いつも一人で制作しています。
意匠を考え、生地を選び、染めの材料を揃え、文様を描き、染めをし、洗いをし、ミシンでフダ付けし、アイロン掛けし、写真を撮り、Webに掲載し、展示会では接客し販売もする。
手伝ってもらう事もあるけど、基本一人です。
「人と共同で染めはできない」(染裕の染めたいものは)、という考えが中心だけど、鳥井信治郎の物語「琥珀の夢」のベースになっているひとつに、
「人に働いてもらう=人に愛される=近江商人三法よし」の考えがあり。
一人で出来ることには限界あり。

P106
先の見えないことを見据えることのできる独特の勘と能力を信治郎は持ち合わせていたのだろう。その証拠に、彼が商品化に取り組んだ前述の商品は、現在、どれも巨大市場となっている。

P107
明治40年8月、のちに“宣伝広告のサントリー”を呼ばれる寿屋洋酒店の第一号の広告が大阪朝日新聞に掲載された。

商品名、看板やラベルの色、キャッチコピー、全てにこだわり、まだ日本人に馴染みのなかった「ウイスキー」を世に広めるために宣伝広告にも力をいれた。
やっぱりサントリーの広告って独特で強いインパクト残しますよね。

P160
信治郎は神社仏閣があると、必ずそこを訪ねて挨拶し、御布施を惜しみなく献上した。“信治郎の走り参拝”と呼ばれて、新年には三ケ日で二十、三十の神社仏閣を回った。
「この水が寿屋にええウイスキーをこしらてさせてくれんのや。ありがたい水や。」
戦国時代、俳諧の祖と呼ばれた山崎宗鑑が暮らしたとも言われる妙善庵には、千利休が“待庵”という茶室を建てているほどたっだ。

染めも同じだ。
神様に祈り、水の持つ清らかなエネルギーと場所のエネルギー。
自分の気持ちの波を整えないと、いい染めができない。

P160
その額のホクロを、後年寿屋宣伝部に入社した作家の山口瞳が“ビューティフルポイント”と名付けた。

P172
「バッカスでっか?」
「そう、そのバッカスや。あっちには昔から大麦があった。日本には米があったさかい清酒がでけた。ウイスキーはそないなものと違うやろか。それに一番は熟成や。三年も五年も、十年も樽の中で寝かせたる。そん時、そのバッカスが何かしよるんやろ。そやさかい、おまはんも知ってるとおり、樽の中の酒がなんぼか減ってまうのを“神さんの分け前”言うやないか」

鳥井信治郎氏が
赤玉ポートワインやウイスキー、新しい商品や宣伝広告に注いだ“情熱”
シビれました。

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