「騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編」村上春樹著
前回に続き、春樹さんに夢中になっています。
ストーリーには触れず、自分が気になったフレーズを忘備録で残します
P159
「日本画を定義するのは、それほど簡単なことではありません。一般的には膠と顔料と箔などを主に用いた絵画であると捉えられています。そしてブラシではなく、筆や刷毛で描かれる。つまり日本画というのは、主に使用する画材によって定義される絵画である、ということになるかもしれません。もちろん古来の伝統的な技法を継承していることもあげられますが、アバンギャルドな技法を用いた日本画もたくさんありますし、色彩も新しい素材を取り入れたものが盛んに使用されています。つまりその定義はどんどん曖昧になってきているわけです。しかし雨田具彦さんの描いてきた絵に関して言えば、これはまったく古典的な、いわゆる日本画です。典型的な、と言ってもいいかもしれません。もちろんそのスタイルは紛れもなく彼独自のものですが、技法的に見ればということです。」
「つまり画材や技法による定義が曖昧になれば、あとに残るのはその精神性でしかない、ということになるのでしょうか?」
「そういうことになるのかもしれません。しかし日本画の精神性となると、誰にもそれほど簡単に定義はできないはずです。日本画というものの成り立ちがそもそも折衷的なものですから」
主人公は美大出身の肖像画家なので、絵画に関する事が出てくる場面が多いのですが、この“日本画について”のくだりは具体的に深く探求していて、夢中になってしまいました。これって、「日本画」を「藍染」に置き換えても同じように読み取れる部分が多いです。
P160
「十九世紀後半に明治維新があり、そのときに他の様々な西洋文化と共に、西洋絵画が日本人にどっと入ってきたわけですが、それまでは『日本画』というジャンルは事実上存在しませんでした。というか『日本画』という呼称さえ存在しませんでした。『日本』という国の名前がほとんど使われなかったのと同じようにです。外来の洋画が登場して、それに対抗するべきものとして、それと区別するべきものとしてそこに初めて『日本画』という概念が生まれたわけです。それまでにあった様々な絵画スタイルが『日本画』という新しい名のもとに便宜的に、意図的に一括りにされたわけです。もちろんそこ外されて衰退していったものもありました。たとえば水墨画のように。そして明治政府はその『日本画』なるものを、欧米文化と均衡をとるための日本のアイデンティティーとして、言うなれば『国民芸術」として確立し、育成しようとしました。要するに『和魂洋才』の和魂に相応するものとして。そしてそれまで屏風絵とか襖絵とか、あるいは食器の絵付けなどの生活デザイン、工芸デザインとされていたものが、額装されて美術展に出展されるようになりました。言い換えれば、暮らしの中の自然な画風であったものが、西洋的なシステムに合わせて、いわゆる『美術品』に格上げされていったわけです」
「岡倉天心やフェノロサが当時のそのような運動の中心になりました。これはその時代に急速に行われた日本文化の大がかりな再編成の、ひとつの目覚ましい成功例と考えられています。音楽や文学や思想の世界でも、それとだいたい似たような作業が行われました。当時の日本人はずいぶん忙しかったと思いますよ。短期間にやってのけなくてはならない大事な作業が山積みしていたわけですから。でも今から見ると、我々はかなり器用に巧妙にそれをやってのけたようです。西欧的な部分と非西欧的な部分の、融合と棲み分けがおおむね円滑に行われました。日本人というのはそのような作業にもともと向いていたのかもしれません。日本画というのは本来、定義があってないようなものです。それはあくまで漠然とした合意に基づく概念でしかない、と言っていいかもしれません。最初にきちんとした線引きがあったわけではなく、いわば外圧と内圧の接面として結果的にうまれたものです」
すごいな、この文章はそのまま「日本美術史概要」じゃないですか。しかも独自の解釈をこの小説用にかみ砕いている。
「固定された本来の枠組を持たないことが、日本画の強みともなり、また同時に弱みともなっている。そのように解釈してもいいのでしょうか?」
「そういうことになると思います」
「しかし我々はその絵をみて、だいたいの場合、ああ、これは日本画だなと自然に認識することができます。そうですね?」
「そうです。そこには明らかに固有の手法があります。傾向とかトーンというものがあります。そして暗黙の共通認識のようなものがあります。でもそれを言語的に定義するのは、時として困難なことになります」
免色はしばらく沈黙していた。そして言った。「もしその絵画が非西欧的なものであれば、それは日本画としての様式を有するということになるのでしょうか?」
「そうとはかぎらないでしょう」と私は答えた。
「非西欧的な様式を持つ洋画だって、原理的に存在するはずです」
「なるほど」と彼は言った。そして微かに首を傾げた。「しかしもしそれが日本画であるとすれば、そこには多かれ少なかれ、何かしらの非西欧的な様式が含まれている。そういうことは言えますか?」
私はそれについて考えてみた。「そう言われてみれば、たしかにそういう言い方も
できるかもしれませんね。あまりそんな風にかんがえたことはなかったけれど」
「自明ではあるが、その自明性を言語化するのはむずかしい」私は同意するように肯いた。
彼は一息置いて続けた。「考えてみれば、それは他者を前にした自己の定義と通じるところがあるかもしれませんね。自明ではあるが、その自明性を言語化するのはむずかしい。あなたがおっしゃったように、それは『外圧と内圧によって結果的に生じた接面』として捉えるしかないものなのかもしれません」
物語の中のある一部分でしかないのですが、
なんでこんな文章が描けるんだろう。
夢中になって読んでしまいますよ、ホントに。